よ  ま  い  ご

迷 子

 

 呼吸の音だけが聞こえている。

 視界に映るのは影。闇色をした木々や家々の影が、前から後ろへ現われては消えてゆく。足音は聞こえず、肌を流れる夜風の涼しさだけが、自分が走っていることを教えてくれる。

 彼は走っていた。月明かりさえない真っ暗闇の中、脇目も振らずただ前だけを見つめて。誰かを追うように。何かから逃げるように。

 階段を跳ぶように屋根を伝い、

 水溜りを飛び越すように垣根を乗り越え、

 水の上を走り、

 生い茂る木々の間をすり抜け、

 舞い落ちる木の葉をすら足場にしながら――

 黒い残像だけを残して、彼は街を、池を、森を駆け抜ける。

 彼は、何故走っているのだろう?

(何故……だろう……)

 何かを追っているのか。

 誰かから逃げているのか。

 それは何を?

 それは誰から?

(あれ……? なんだっけ……)

 オレは――なんで走ってるんだ?

 ふと、疑問に思った瞬間。

「ぅおっ、と!?」

 横をすり抜けた木の細枝が足に絡まり、彼は転んだ。

 空中で。

「―――どぉああああっ!?」

 なす術もなく空に投げ出され、悲鳴を上げる。とはいえ、落下中に木の幹でもあれば難なくそこに降り立てる――のだが、投げ出された先はちょうど木々の途切れる何もない空間で。

 枝の一本もあればそれを蹴って方向転換できるが、当然一本もなく。

 それでも、地面さえ見えれば受け身くらい――だが、この暗闇では!

「……っと、やべェって……!」

 結局、彼にできたのは衝撃に備えて身を丸めることだけで――

 次の瞬間、何かが何かにぶつかる鈍い音と。

「ぎゃあああああー!!」

「きゃあああっ!?」

 二人分の悲鳴が、夜に響いた。

 

「び、びっくりしたぁ……」

「ッテテテ……ご、ごめんってばよ……」

「っ!?」

 帰って来た返事、その声に、息を詰まらせる。

「な……ナルトくん!?」

「ん? あれ、ひょっとしてヒナタ?」

 いきなり空から降って来たその小柄な人影が、身軽に立ち上がってこちらを見つめてくる。暗闇でもわかる、その人影が誰なのか。

 反射的に、物陰に隠れようと体が動きかける――が、あいにく近くには隠れられそうなものが何もない。それに、何故かいつもほどには、心が乱れなかった。

(なんでだろ、こんなに近いのに、いつもより平気……あ、そっか。夜だからよく見えないんだ)

 この暗闇なら、相手の顔もはっきりとは見えないし(白眼を使えばその限りではないが)、なにより自分の顔を見せずにすむ。

「いやあオレとしたことが、うっかり木から滑り落ちちまったってばよ。ゴメンな、ヒナタ」

「ううん、大丈夫。……ふふ、そっか。私はてっきり、ナルトくんが空から降って来たのかと思ったよ」

「な、なんでそうなるんだってばよ」

「だって、そっちのほうがナルトくんらしいもの」

「……空から降ってくるのが?」

「うん。あと地面を掘ってきたりとか、クナイと一緒に飛んできたりとか爆発の中から出てきたりとか」

「うう……どれもビミョーに心当たりがあって言い返せないってばよ……」

「でも、こんな夜更けにどうしたの?」

 その質問に、彼はしばらく沈黙し、

「う〜ん……まあ、ちょっと」

 と、口を濁す。誤魔化したというよりは、彼自身、自分が何故ここにいるのかわかっていないようだった。

「ひょっとして、ナルトくんも夜の散歩?」

「……も? てことは、ヒナタは散歩してたのか?」

「うん。私は、夜が好きだから」

 彼女の言葉に、彼は「ふうん?」と不思議そうな返事をする。表情はわからないけど、きっと、きょとんとしていることだろう。

 月のない暗闇。見つめ合っていても、お互いの表情すらわからない。

 だから、安心できる。

「何も見えない夜が――とても、好きだから」

 

 白眼は魔眼である。

 忍にとって、情報というものの価値は重い。ましてやそれが自分自身の体に関わる情報であったならば、それを知られることは即、死に直結する。強者が格下の相手に弱点を突かれ、ひとたまりもなく倒されるのはよくある話だ。

 だからこそ、白眼の継承者は恐れられる。かつてうちはが健在であったころ、木の葉の忍から最も恐れられた瞳術使いはしかし天才揃いのうちは一族ではなく、日向一門であった。技を見ただけで、体術忍術を問わず全て理解し己のものとする車輪眼ではなく――相手を見るだけで、特異体質、隠し持つ暗器、その日のコンディションまでを全て網羅する白眼を。なぜならそれは、己の命を握られることに等しいのだから。忍にとっては白眼はまさに、見つめられるだけで死に至る魔眼、凶眼であったのだ。

 故に。

 里の者たちの多くは、彼女に見られるのを嫌がった。当たり前だ、彼女のそれは武器なのである。瞳術から逃れるすべを持たない者にとって、日向の者から『見られる』という事は、喉元に刃物を突き付けられているのと同じ。たとえ彼女にそんなつもりはなくとも、日向の血が、それを可能にしてしまっている。

 皆、眼が合うと視線をそらす。笑みを浮かべていても、どこか居心地悪そうにしている。用事を作ってそそくさと遠くへ逃げる。一子相伝の秘術を持つ者などは特に、あからさまなほど彼女を避けた。

 それが嫌になって、彼女はうつむくことが多くなった。人と眼を合わせずに、いつも地面ばかり見ていた。皮肉なことにその優れた瞳は、そんな状況でも何の不自由もなく、彼女に日常生活を送らせてくれた。うつむいていたって、辺りの様子が大体わかってしまうのだ。

 だったら、もう、いいか。

 そう思った。

 このままでも、いいか。どうせ誰も、私の顔なんて見たくないんだし。余計なことは言わなくていい、自己主張なんてなくていい、ただ黙ってうつむいていよう。どうせ誰も彼も私のことを嫌っているんだ。うっとうしいんだ。邪魔なんだ。

 だったら、もう、いいじゃないか。

 徐々に。

 ゆっくりと、ゆっくりと、彼女は、世界を閉じていった。

 見え過ぎる眼をふさぐように、ゆっくりとゆっくりと、全てに関心を無くしていった。

 時々無性に、顔を上げてみたくなる。人と話したくなる。だけどその度に、あの恐れに満ちた顔を、ぎこちない身振りを、曖昧な拒絶を思い出して――結局、彼女は顔を上げることができず、その想いを飲み込むのだった。

 だから。

 

「落ち着くの。闇の中だと。自分が誰なのか、忘れられるから」

『ひなた』の名をもつ彼女は、静かな声でそう語った。

「もちろん、毎日出歩いてるわけじゃないよ。いつもは寝てる時間。だけど、時々夜中に目が覚めてしまうことがあって、そんな時はいつもこうして散歩をするの。知っている場所でも、昼間とは全然違う風に見えたりして……」

 そこまで語って、彼女はふと我に返ったように言葉を途切れさせた。苦笑のこもった声で、彼に聞いてくる。

「こんなの、変かな?」

「いや、その気持ちわかるってばよ。でも……オレは同じだけど、逆だな」

「逆?」

「自分が誰だかわからなくなって、安心できる――そう言ったろ?」

 いつになく静かな声で、彼は言った。

「オレは、自分が誰だかわからなくなるから――夜は、嫌だ」

 

 錯覚する。自分が、ここにいないのではないかと。

 それは、人の中にいる時。多くの人がいて、楽しげに語らって――だけど誰も、彼を見ていない。

 幼い頃からそうだった。ある瞬間、ふと、誰も彼の方を見ていないことに気がつくのだ。彼が存在しないかのように。網膜に映りすらしないように。

 嫌われるのも、拒まれるのもつらかったが、何よりも心を刺すのはそれだった――無視されること。

 後に、その理由を知った。彼の腹の底には、かつて里を襲った妖魔が封ぜられていることを。大妖・化け狐の九尾。

 それを知らされた時、妙に納得したものだ。ああそうか、あれは恐れられていたのか、と。大き過ぎる恐怖に耐え切れなくなった人の精神は、それが無い状況を望み、やがては意識の外へ弾き飛ばす。だから九尾の姿を知らない同年代の子は、親の受け売りで彼を嫌いこそすれ無視はしなかった。

 もちろん当時の彼は、そんなことは知らず、自分が恐れられていることすら理解できなかったのだが。

 故に。

 彼はあらん限りの、思いつく限りの悪戯をするようになった。誰かれ構わず無差別に、とにかくもう思いつく端から。なるべく大事になるような、大人が無視をできないような(たとえば里のシンボルである顔岩への落書きなど)悪戯を好んでした。

 周囲からは単なる目立ちたがりのようにしか思われなかったが、彼にとっては目立つことこそが生命線だったのだ。誰かが自分を見ている――その実感が、あまりにも希薄で。叱られることすら嬉しかった。そんな程度の触れ合いでさえ、彼には希少だったのだから。

 悪名が上がれば上がるほど、彼は喜んだ。これで誰も、彼のことを無視できない。彼の名前を忘れない。いつか彼がここにいられなくなっても、初めからいなかったことにはならない――

 だから。

 

「不安になるんだ。夜になって、一人きりで部屋の中にいると、あの頃の気持ちを思い出して――」

 今はもう、仲間がいる。悪戯なんかしなくっても、ちゃんと彼を認めてくれる人がいる。今は、あの頃とは違う。

 ……違う、はずだ。

「――今までのことなんて全部嘘で、全部夢で、オレはまだ一人ぼっちのまんまなんじゃないかって――」

 暗闇の中、今が本当である確証なんてどこにもなく。昼間笑いながら交わした言葉も、すべて幻であったように思えて。

「――そう思うと、急に、怖くなって。一人っきりで部屋の中にいるのが堪えられなくなって――」

 すべてが幻であったなら、一体、自分の隣には、誰がいるのだろう。誰がいてくれるのだろう。

「――だから、だから――」

「……逃げ、だした?」

 そう。

 逃げて来たのだ。やっと思い出した。

 暗闇の中、耐え切れず、孤独に押しつぶされそうになって。

 逃げた。

 逃げた。

 逃げた。

 暗闇から。孤独から。一人きりの部屋から。一人きりの記憶から。逃げた。

 何を恐れていたのか、それすら忘れてしまうほどに恐怖して。

「――は、はは。カッコ悪いな、オレってば。一人が恐いって、なんか、ガキみたいだってばよ」

「そんなことないよ」

 照れ笑いで誤魔化そうとする彼に、彼女はいたって真面目な様子で首を振った。

「誰だって一人は恐いもの。私だったら、きっと、耐えられない」

 気配が近づく。顔も見えないはずの暗闇の中で、彼女の表情がわかるような気がする。

 あの白い瞳が、自分を見つめてくれている、ような。

「ナルトくん。私は、ナルトくんがここにいること知ってるよ。どんな時でも、ナルトくんのことを覚えてるよ」

 だから、もしまた夜中に目が覚めて、不安でどうしようもなくなったら、私に会いに来て。

「私の瞳なら、見間違えない。真っ暗闇の中でだって、ナルトくんを見つけ出せるよ」

 もしそれが、月の明るい夜でも、恐れずにあなたを見つめるから。

 

 それから、二人で歩いた。森の中、湖のほとり、街の大通り。静まり返った夜の世界を、時には無言で、時には言葉を交わしながら。

 彼は昼間よりも、少しだけ静かで。

 彼女は昼間よりも、少しだけ積極的で。

 そうして歩く二人は、とてもよく似ていた。

「手を繋いでいい?」

 それを言ったのは、果たして、どちらだったのだろうか。

 宵闇の子供たちは、どちらからともなく手を握り合う。

 

 もう、逃げたくなることはないだろうな、と彼は思った。

 それでも、いつかまた二人で夜を歩こう、とも。

 

 

 

 

 

 

 

(おしまい)

 

 

 

 

あとがき

 自分でもわかってたんですが、今までの短編、どーしてもヒナタ主体の話になっちゃってたんです。

 だけどこれはけっこうナルトよりに書けたんじゃないかな? というわけで自分的には満足。

 それでも二人の出番はほぼとんとん。いや、しかたないのです話の構成上。二人を比較したかったので。

 持論だった「ナルトとヒナタって一見性格真逆みたいだけど実は似てるよね」を文章化できたので、その点でも満足。

 自分ばっかり満足してもしょうがないでしょ!