劇中劇 『酢めし疑獄』

 

 注:自分のことばっかり書いてます。

 

 

 

 この感覚はなんだろう。『がんばれ酢めし疑獄!!』を読んでいると、時々言い表しようのない不思議な感覚に襲われる。懐かしさに似て違うもの。

 私は『サナギさん』も好きだ。あののどかな空気は、とても居心地がいい。だが、『酢めし』で感じたものは、その空間の中にはない。

 何が違うのだろう。少しでも答えに近付くために、考えてみようと思う。『サナギさん』と『がんばれ酢めし疑獄!!』は、どこがどう違うのか。

 近いようで遠い、二つの距離。『酢めし』にあって『サナギさん』にないものとは、何なのか。それがないことで、何が変わったのか。

 

 

『サナギさん』と、その前身である『がんばれ酢めし疑獄!!』には、はっきりとした差異が一つある。それは作中におけるキャラクターの扱いだ。

『酢めし』時代、キャラクターはネタの一部だった。擬音やコマ割りと同じ、「いかにネタを見せるか」というためにのみ動かされる存在であった(シリーズを持つキャラもいるが、本質的には同じである)。

 だが、『サナギさん』ではそれが変化する。物語は一貫して主人公のサナギさん目線で語られ、日々の出来事に関する彼女の感情の変化、具体的には親友フユちゃんに対する接し方などの変化がきっちりと描かれるようになる。一人一人のキャラが『酢めし』に比べ、大切にされるようになった。

 この差には両作品の、ギャグマンガとしての傾向の違いがあらわれている。

 

 個人的な見解として、ギャグマンガは二種類に大別できる。ぶっ飛んだシュール系と、日常を描くほのぼの系だ(『ピューと吹く! ジャガー』など、同じ作品内でも多少系統が重なり合っているものもあるから、作品というよりネタの傾向といえるかもしれない)。『酢めし』はシュール系、『サナギさん』は日常系である。

 

 シュール系ギャグマンガの古典的なお約束として、「重大な出来事も回をまたげばリセットされる」というものがある。車にふっ飛ばされようが白骨化しようが地球が滅亡しようが、次の回では何事もなかったかのように話は進む、というものだ。『えの素』などはそれが特に顕著で、さっき死んだキャラが次の回どころか数ページで復活していることもある。『不死身探偵オルロック』ではそのお約束を逆手に取り、不死身というキャラづけに利用していた(オルロック以外もたいがい不死身だったけど……)。

 なぜそんなお約束が必要なのか? ギャグマンガにおけるインパクトは重要だ。インパクト、勢い、意外性。同じネタであっても、それらの要素のあるなしで印象はかなり変化する。

 そして、本来重要であるはずの事が軽く扱われる様は、読み手に否応なしに大きなインパクトを与える。だから、キャラクターは不死身であることが多い。どれだけ致命的な出来事が我が身に降りかかろうとも、次の瞬間にはけろりと笑っていられる不死身のタフネスが、シュール系ギャグマンガの主人公には不可欠なのだ。

 

 しかし、ほのぼの系ギャグマンガでは事情が違う。日常を描くわけだから、ある程度は現実の世界に歩み寄る必要がある。登場人物がいきなり車にふっ飛ばされたりしては都合が悪い。というわけで、シュール系の肝だったインパクトは極力排除される。インパクトは重要だが、重要とは決して必須ということではない。ネタの印象をあえて弱めることで、なんてない日常を自然に描くことができるのだ。

 

 さて、『サナギさん』はほのぼの系ではあるものの、ある意味で非常に特殊な構造をしている。それは、ほのぼの系の作品の中に、登場人物の思考としてシュール系の世界を内包する二重構造だ。

 この構造こそが恐らく、『酢めし』から『サナギさん』へと移行した際の、もっとも重要な変化ではないだろうか。

『サナギさん』の登場人物がある日突然死んだら、読者はびっくりするだろう。『サナギさん』の世界は現実に近いと認識しているからだ。だが、『酢めし』では気にならない。キャラが記号に過ぎないことを、読者が十分にわかっているからである。しかしそのため、『酢めし』でやっていたことを『サナギさん』でやろうとすると、どうしても不自然な形になってしまう。だからこそこのような二重構造が必要なのだ。

 ならばなぜ、そんな余計な苦労を背負いこんでまで、シュールからほのぼのヘと、作風をシフトしなければならなかったのだろうか?

 シュール系最大の弱点は、矢継ぎ早に繰り出されるネタの数々に、読者が時々おいてけぼりをくらうことだ。尖り過ぎた笑いのセンスは、ついて行くことができなければただただ不可解な印象しか生み出さない。『酢めし』は間違いなくその尖り過ぎた作品だった。それは創作の姿勢としてけして間違ってはいないと思うが、『サナギさん』を見るに、やはり「もっと多くの人にわかってもらいたい」と作者は思ったのではないだろうか。

『酢めし』時代の持ち味を無くさないまま、誰にでもわかるような作品を作らなくてはならない。その問題に対する答えが、『サナギさん』の二重世界なのだろう。

 

『サナギさん』の中で、ネタは常にサナギさんたち登場人物の「思考」として表現され、登場人物そのものは変化しない。フユちゃんがよからぬ考えの中でエレベーターの乗客をまっぷたつにしても、サナギさんたちの世界では誰も死んでいない。いうなれば、サナギさんたちの空想の中に酢めし疑獄の世界があるのだ。サナギさんたちの立ち位置は作者に近い。それは同時に、読者との距離が近づいたということでもある。

シュールな『酢めし』の世界をだれもが頭の中にもつ想像の世界として表すことで、『サナギさん』は持ち味を失わないまま、読者の共感を得ることに成功した。 

 しかし、この構造はこう宣言しているのと同じだ――『酢めし疑獄』はフィクションでしかない、と。

 もちろん『サナギさん』だってフィクションである。しかし、徹底して自由で極端だった酢めし世界に比べ、サナギさんの世界はリアルだ。シビアではないが、現実的だ。サナギさんもフユちゃんも、マナミさんもモリカワさんもハルナさんもサダハルもタカシも、ちょっぴり変わってはいるものの、現実にいてもおかしくない人格をしている。この世界に非現実的なものはなく、だからこそサナギさんは非現実的な空想をする。

 そして、繰り返しになるが、その空想こそが『酢めし疑獄』の世界なのだ。

 それになんの問題があるのか? あからさまに虚構だった『酢めし』が完全にフィクションとなったところで、一体どれほどの影響があるものか?

 

 ようやく、わかった。そのあからさまな虚構の世界が、注意書きなどなくとも見ただけでフィクションだというコトのわかる『酢めし疑獄』の世界が、私は好きだったのだ。

 矢継ぎ早に繰り出されるはちゃめちゃなキャラや展開は、卑近な日常の中の発想から育まれたものであるが故に、こんなコトは現実にはあり得ないとわかっていても、心のどこか片隅で「でもどこかにあるんじゃないか」と思わされる。とんでもない世界を一瞬ふっと受け入れてしまう、その瞬間が楽しくてしょうがなかった。

 だから、初めからその滅茶苦茶な世界がフィクションであると明確にされている『サナギさん』では、たとえ同じだけの面白さをもったネタでも、『酢めし』のような異様な雰囲気を感じられなかったのだ。

 

 言っておくが、「だから『サナギさん』がダメ」とか、そういうことを言っているのでは決してない。『サナギさん』がより多くの読者に向けて描かれているとするならば今のような形になるのは必然で、それでもなおネタの質は『酢めし』に比べて見劣りしない、というのは信じられないくらいすごいことだ。『バイオハザード』を、その持ち味を生かしたまま学園ラブコメにする、くらいの離れ技をやっていると思う。その過程で(一読者が勝手に感じていた)独特の空気が消えてしまったからといって文句を言うのは、いくらなんでもわがままってもんだろう。上記の感覚はむしろ共感できる人の方が少ないと思うし。

 私の人生において『サナギさん』の存在は大きい。週刊少年チャンピオンはじっくり読むとなかなか味わい深い雑誌だが、それでも『サナギさん』が載っていなければ買う気はない。新刊が出れば迷うことなく何を置いても購入する。優先順位が他とは比べ物にならない。それくらいに好きな作品である。

 

 ただ、それでもやっぱり『酢めし疑獄』の世界をもう一度見てみたい、というのは、異世界愛好家のたわごとだ。

 

 

 

 

 好きなマンガ:『サナギさん』

 好きな世界:『がんばれ酢めし疑獄!!』

 

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