わくらば

 

 ほんの少し目を離しただけで、世界はその姿を変えてしまう。風邪で休んでいた櫻井美樹が三日ぶりに学校にやってくると、親友の伊庭陽子が半分になってしまっていた。
「美樹、大丈夫? なんかまだ顔色悪いよ」
 心配そうに首をかしげる陽子、だがその顔は右半分だけ。左半分はほとんど無くなって、虫に食われた葉っぱのような断面をのぞかせている。
 美樹は驚きのあまり声も出せず、ただぱくぱくと口を開けた。一つ思い浮かぶのは、とりあえず三日前はこうではなかったということだ。風邪で休む前の陽子にはまだ半分があった。無理して調子が悪くなった美樹に、陽子は右肩を貸して保健室まで連れて行ってくれたのだから。異常があればその時に気がつくはずだ。
「美樹、ほんとに大丈夫なの?」
 半分だけの顔でこちらを覗きこんでくる陽子に、美樹はよっぽど同じ言葉を返そうかと思ったが、なんとか堪えて「大丈夫」とだけ答える。よく見れば、右腕もすでに無い。ひょっとしたら、服で隠れて見えない体の中も、半分だけになっているのではないか。
 陽子自身、自分が半分になったことを気にしていはいないようだった。というより、気が付いていない風にすら見える。美樹以外のクラスメイト達も同様だ。陽子や美樹と仲のいい生徒が挨拶をしてくるが、その中の誰も1/2になった陽子に疑問を抱いている様子はなかった。
 だとすれば、これは夢幻のたぐいか。考えてみれば、こんな状態で人間が生きていられるはずはない。すべては美樹の見ている幻だったのだ。
 それはそれで色々とショックだが、美樹はとりあえず安心した。幻だとわかっていれば、この異常な光景への恐怖もいくらかやわらぐ。まだ心配そうな顔の陽子(1/2)を適当にあしらいながら、美樹は医者に説明する時のことを考え始めた。やれやれ、今年の風邪は目にくるのだろうか。
と。

 かさ かさ かさ

 どこかから、そんな音が聞こえてくる。

 かさ かさ かさ  ぱり ぱり ぱり

 どこか乾いた、それでいて湿った小さな音。どこから響いてくるのかと辺りを見回した美樹は、ふと、陽子の制服のえりに、黒っぽい何かが動いているのを見つけた。黒く艶やかなそれは、人さし指の先ほどの大きさで、うごめきながら少しづつ陽子の首を登っていく。それは芋虫の頭だった。頭に続いて、白いぼってりとした体が制服のえり口から這い上ってくる。カブトムシの幼虫に酷似したそれは、食欲以外に何も感じさせない貪欲な仕草で、陽子の『断面』へとかぶりつく。
 美樹が意識を保っていられたのはそこまでだった。

 目を覚ますと、保健室の白い天井が見えた。教室でいきなり気を失ってここまで運ばれたのだと、寝かされたベッドの横に座っている保健委員が教えてくれた。彼女はぶっきらぼうだが面倒見が良い。
「いきなり倒れてるからびっくりしたよ。まったく、病み上がりで無理するから」
 美樹がここまで自分を運んでくれたことに礼を言うと、彼女は照れ臭そうに否定した。
「いくら私でも、倒れてる人間を無暗に動かしたりはしないし、それに完全に気絶した人間を一人で運ぶのは無理だよ。保険の若松先生と、それから伊庭さんにも手伝ってもらったから。私よりその二人にちゃんとお礼を言ってね」
 彼女の言葉に、美樹は全身が総毛立つのを感じた。気絶する前に見たもの。それを思い出して、体が細かく震えだす。
「特に伊庭さんは、目の前であなたが倒れたのに責任感じて、付き添いまでするって言いだしたんだから。授業はちゃんと受けなさいって先生に言われて結局教室に戻ったけど、もうそろそろお見舞いに来ると思うわよ。今、昼休みだから……
 その言葉が終わるよりも早く、保健室の扉が開いた。その扉を開けた『右手』は、美樹には見えなかったが。
「ほら、来た」

 使われていない教室の隅で、美樹はうずくまっていた。あの後、美樹は入口に立っていた陽子を突き飛ばすようにして保健室を飛び出し、ここに逃げ込んだのだ。校内放送で何度か美樹の名が呼ばれたが、放課後になって誰もいなくなるまでこの場所を出る気はなかった。
……喰われたんだ」
 膝を抱えた体育座りの姿勢で、美樹は床をにらみつけながら、ひとりつぶやく。
「陽子はあの虫に喰われたんだ……喰われてるんだ。他のみんなには見えてないけど、今だって喰われてるんだ……
 青虫が葉を齧るように。ぱりぱりと。かさかさと。むしゃむしゃと。
 もう、幻だろうがなんだろうが関係がなかった。彼女には見えているのだ。受け入れがたいものが、恐ろしいものが美樹には見えている。他の誰かにとっては妄想でしかないと頭では理解しても、あの時感じた嫌悪感が消えてなくなるわけではない。たとえ幻であっても、あの虫に触れたいとは思わない。
 カーテンの閉まった窓から、部活中の掛け声が聞こえてくる。時間を確認するために美樹が携帯を開くと、たくさんのメールが届いていた。ほとんどが居場所を問いただす先生からのメールだが、その中に一通だけ、差出人の違うものが混じっている。


『放課後 二人で会いたいです
 いつもの教室で待っています
 陽子』

 数分後、自分たちのクラスがある教室の前に美樹は立っていた。陽子のメールにあった『いつもの教室』とはこの場所のことだろうとあたりをつけたのだが、案の定、教室の中には陽子の姿があった。廊下の窓越しに、美樹は用心深く陽子を観察する。彼女はまだ美樹に気が付いていないようだ。
 二人で会いたいとの言葉通り、教室の中に、彼女以外の人影はなかった。美樹が教師の呼び出しに応じないことを鑑みてのはからいだろう。陽子らしい思いやりだった。
 だが、それでも美樹には確信が持てない。彼女が、本当に美樹の知っている『伊庭陽子』なのか確信が持てない。
 あの虫は、間違いなくただの幻か? 病み上がりで疲れた脳と眼球が引き起こした架空のモノでしかないのか?
 それとも。
 人知を超えたおぞましい何かが本当に陽子の体を食い荒らしていて、美樹以外の誰も、それに気が付いていないのではないだろうか。
 確かめるには、自分で触れてみるしかない。手には取れぬ幻であると、感覚で理解するしかない。意を決して、美樹は教室の扉に手をかけた。
……美樹」
 窓から差し込む西日を全身に浴びて、黒い影と化した陽子。彼女の影も……美樹にはやはり、半分にしか見えなかった。
 ゆっくりとした足取りで近づいてくる陽子に、美樹はびくっと体を震わせた。陽子の足が止まる。
「私が怖いの? 美樹」
 彼女の静かな問いかけに、美樹は答えることができなかった。
 小学校の頃からずっと仲の良かった陽子。その彼女を信じられない自分が、美樹は悔しかった。うつむいたままだった顔を上げ、美樹は親友の顔をぐっと見据える――
 そして悲鳴を上げた。
「ごめん。なんで美樹が私のこと怖がってるのか、私にはわからないけど」
 悲痛な声音でそう語る陽子の顔には、またあの芋虫が這っていた。ただし、一匹ではない。断面全てを埋め尽くすように、びっしりと。
 十匹以上の芋虫が、陽子の残り半分をむさぼっていた。ぱりぱり。かさかさ。むしゃむしゃ。
「でも、私、美樹に嫌われたままでいたくないの! お願い、私になにか悪いところがあるのなら――
「わ、あわ、うわああああっ!? こ、来ないでっ!!」
 こちらへ近寄ってこようとした陽子へ、美樹は反射的に叫んでいた。立ち止まる陽子の顔は、きっと悲しげなのだろうが、それを見て確かめる勇気はもうなかった。
 駄目だ。あれは駄目だ。触れることなんてできるわけがない。わたわたと教室の隅へ逃げながら、美樹は声を上げる。
「ご、ごめんっ! あああその、陽子が悪いわけじゃないんだけど、なんというか生理的……じゃなくて個人的な事情があの」
……わたしは、」
 陽子の声に含まれたかすかな震えが、一瞬、美樹の思考を止めた。恐る恐る、そらしていた視線を戻す――目に飛び込んできたのはうつむいて肩を震わせる陽子の姿だった。
がままかも、しれないけど、らわれたままじゃ、つらい、から、……
 絞り出すような声と一緒に、ぽた、ぽたと涙が教室の床にこぼれる。涙の染みは、二つ分あった。
「わた、わたしが悪いなら、謝るから、………嫌わないでよ……
………
 芋虫の姿は、美樹には見えても、陽子や他の人々には見えていなかった。だけど、見えていなくても、それに対する美樹の反応は伝わっている。嫌悪と恐怖の感情、理由が分からないまま向けられるそれは、一体どんなものなのだろうか。
 見えるままを率直に伝えたところで解決にはならないだろう。下手をすれば婉曲な絶交宣言にとられかねない。言葉が駄目なら、他にどうすればいい? どんな方法がある?
………
 美樹にとって、芋虫は『現実』だ。触るなんて考えただけで首の後ろの毛がよだつくらいに。
 だけど、それでも。
 さわって触れて、確かめなければならないとしたら。
「陽子」
 名を呼ぶと、小柄な彼女の体がびくっと震えた。小柄な体。齧られて半分になって、さらに小さく見える。芋虫たちは、まだ彼女の体を食べ続けていた。ぱりぱり。ぱりぱり。かさかさ。かさかさ。
「私は陽子のことが大好きだよ。嫌ってなんかない」
……ほんと?」
 不安げな陽子に、美樹は力強くうなずき返す。
「本当。今からそれを証明する」
 もうこれ以上、芋虫なんかに私の友達を食わせたりしない。強くそう決心して、美樹は一歩を踏み出した。
 その瞬間、不思議なことが起きた。芋虫たちの動きが、焦るように早くなり……それに反比例するかのように、喰われて無くなっていた陽子の部位が、少しだけ戻ったのだ。
 一歩進めるごとに、少しづつ。一歩進めるごとに、少しづつ。ビデオを逆再生した時のように、陽子はその姿を取り戻してゆき……美樹が目の前に着いたころには、陽子は、すっかり元の姿に戻っていた。あの芋虫たちも、どこかへ消えてしまった。
 涙の跡が残った顔でこちらを見つめる陽子を、美樹はしっかりと抱きしめた。

 それ以来、芋虫たちの姿は見なくなった。すっかりいつも通りの明るさを取り戻した陽子と、くだらない話で笑い合いながら、美樹はふと考える。
 きっと世の中には、あんな風に目には見えないものがいっぱいあって、私たちはその内の、自分たちに理解できるほんのわずかなものを全てだと思い日々を生きているのだ。
 ほんの少し、見えているものだけですべてを判断して。きっとそうやって生きているのだ。
……? 何考えてるの、美樹?」
 不思議そうな陽子の声で、ふと我に帰る。考えごとに夢中になりすぎていたようだ。苦笑しながら、応える。
「いやね、大したことじゃないんだけど」
「なになに?」
「最初は透明だったんじゃないかと思うのよ」
「へ?」
「つまりね、私は初め、『喰われた部分が無くなって透明になった』って思ってたけど、じつはそれが逆で、『喰われていない部分が透明で、喰われた部分だけが見えていた』んじゃないかって思うの」
………よく分かんないけど」
「だからいいってば。大したことじゃないし」
 ぽかんとする陽子の様子に苦笑を深めて、美樹は顔の前で右手を振った。振ったのだろう。透明だから、よくわからないが。陽子を抱きしめたあの日から、美樹の体は透明になった。
 体の奥から、かさかさ、という音が聞こえてくる。その音に、もうすぐだよ、と言われた気がした。もうすぐ、きみもみんなと同じになれるよ。
 その囁きに満足して、美樹はにっこりと笑った。

 

 (おわり)

 

 

 

 

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