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 明け方の町におれは飛び出した。たちまち、身を切るような寒さが押し寄せてくる。

 構わずにおれは走り出す。全力疾走だ。ペース配分なんて小賢しい真似はしない。最初から全開だ。

 目指すは一点。愛しの彼女のもとへと、アスファルトで覆われた道の上を、おれは駆け出した。

 走る。

 走る。

 夜明けの町はしずかだ。人っ子一人いない。

 なぜなら、今日は特別なのだ。今日は一年の始まりの日。謹賀新年。そう、元旦だ。つまりおれの眼前に姿を現しつつあるあの太陽こそが、初日の出ということになる。

 人々はあるいは初詣にゆき、あるいは家でのんびりと昨年の疲れをいやしている。今この時、休みなく働いている人々もいるかもしれない。全ての人々に幸あれと願いつつ、おれは走り続ける。

 日の光に追いやられつつある夜は、淡いブルーの色彩となって町を彩り、強さを増してゆくオレンジの朝が強烈なコントラストとなって世界を二分する。

 夜と朝のせめぎ合う道をおれは行く。

 走る。走る。

 朝の光が強くなろうとも、鋭い寒さは相変わらずおれの皮膚に突き立っていった。まるで刃物のように鋭利な冬の風。だがそれすらも、おれを阻むことはない。おれの障害とはなりえない。

 なぜなら、この胸の内で太陽よりも熱い恋の炎が、絶え間なく燃え続けているからさ。……なんてな。

 やや気温は下がった気もしたが、ともかくおれは止まらずに走り続ける。

 おれの足は止まらない。

 走る。

 汗が一筋、流れて落ちた。

 視界を流れてゆく町並みは静かだ。おれの走る音、おれの息遣い、町に響くのはそれくらいのもの。他には何も聞こえない。いつもうるさいくらいに吠えまくっているどこかの犬も、正月は休んでいるのだろうか。家に上げてもらって、家族と一緒にお雑煮でも食べているのだろうか。

 少し寂しくなったおれは彼女の顔を思い浮かべる。おれの彼女は控えめに言っても、この世の誰よりも美人じゃないかと思われる。たぶん歴史をさかのぼっても勝てる相手はいないんじゃないだろうか。もちろん彼女の魅力は外見だけじゃないが(というよりむしろその内的な魅力にこそおれは心奪われてしまったのだが)、一見して最もわかりやすい彼女の素晴らしさが見た目の美しさであるということだ。こうしてその姿を思い浮かべるだけで、おれの中に抑えようもない膨大なエネルギーが湧き出てくるのを感じる。

 ああ、彼女に会いたい。彼女の姿を見て、彼女の声を聞きたい。

 もう、誰もおれを止めることはできない。おれの中に渦巻く無限のエナジーがそれを許してはくれないだろう。彼女の元に辿り付くまでは、おれは何があっても止まらないだろう。

「……いや、君を止めうる存在が一つだけあるね。それは、君自身の意思だ」

 誰かの声が聞こえた気がしたが、気のせいだろう。

 

 走る。

 誰もいないと思っていた朝の町。だが、それはおれの勘違いでしかなかったようだ。

 大通りのど真ん中を走るおれの横にはいつの間にか、ジャージ姿のじいちゃんが一緒になって走っていた。成人したばかりのおれが全力で駆けているというのに、それについてくるとはこのじいちゃん、なかなかやるな。

「精が出ますなあ、お若いの」

 呼びかけられて、おれは曖昧に会釈を返した。

 見ればじいちゃんは一人ではなかったようだ。道の暗がりにかくれてわかりづらかったのだが、似たようなじいちゃんばあちゃんが数人、少し後ろを駆けていた。全員ジャージ姿だった。

 なんとなくバツが悪くなって、おれは正面に向き直り、心持ちじいちゃんばあちゃん集団から眼をそむけるように反対側の道の端を見やると、なんと驚いたことに、そこにもおれと同じ速度で横を駆ける集団があった。

 それはじいちゃんばあちゃんではない。むしろ対極に位置するもの、子供の集団だった。年齢はバラバラのようだが、だいたい一桁と二桁の間くらいの子供たちだろうか。みな一様に体操服を着て、ガキらしく私語をしながらオレの横を走っている。

 また驚かされたおれが振り子のように正面に目を戻すと、白い毛並みに黒のぶちをもつ犬が一匹、いつのまにかおれの前を走っていやがった。さてはお前ら、おれの情熱的な走りに誘われたな。

「お若いのはいつも、こうして朝走ってらっしゃるのかな?」

 最初に話しかけてきたじいちゃんが、犬の尻尾をながめていたおれに再び声をかけてきた。しかしこのじいちゃん、全力で走りながらよく喋れるな。

「………ええ、ま、ぜえ゛、ま゛あ゛…………」

 おれは答えようとしたのだが、いかんせんおれは全力疾走しながら言葉を発するという奇怪な技術は習得していないので、適当な答えになってしまった。無論毎朝走ってなどいない。

「ずいぶん息が上がっておるようじゃが、だいじょぶかの〜」

「へ、あ゛の、……ぜえ、ぜえ……えっど、はい……」

「無理せんで、休み休み行ったらええぞ。無理して体こわしたら何にもならんからの」

 心配してもらえるのはありがたいが、あんたとの会話が今のところ一番の無理かな。

「徳さん、そろそろ行かんかのー」

 後ろのJB集団から、じいちゃんに声がかかる。

「おっと、それじゃあ若いの、わしらは行くからの。ほどほどにがんばるんじゃぞ」

 行く? この辺りで道を外れるのだろうか。おれがそんなことを思っていると、じいちゃんは見る間に速度を上げておれを抜き去っていった。

「……………………………………」

 おれが絶句しているうちに、後ろのJB集団も同じようにペースアップしておれの横を通り過ぎていく。

 もちろん、おれは全力で走っている。

 ……大したものだ。ちょっと健脚なだけのお年寄りだと思っていたら、とんでもない能力者だった。たぶん若い頃はあの数人で小国を落としたりしていたのだろう。

 反対側の子供の集団は、途中で通り過ぎたコンビニに消えていったようだ。

 前を走るぶち犬は、おれが追いつきそうになると、驚いたのか逃げて行った。前に。

 まあ野生だからな。

「自分のレベルくらい、もうわかっているんだろう?」

 誰かが、何か言った気がした。

 

 太陽の動きはスローだった。間もなく朝につつまれるかと思われた世界は、まだ夜の中にいる。もっとも、夜だろうが昼だろうがおれには関係のないことだ。ただひたすらに走り続ける。

「もし……」

どこからともなく、か細い声が聞こえて来た。

「もし……」

 横に目をやると、半透明の幽霊が闇に溶けてそこにいた。

「もし……そこ行く御方、ちょいと話を聞いておくんなましな……」

「なんだ。見ればわかるだろ、おれは忙しいんだ」

 もちろんぜいぜい息を荒くしながらの返事であったわけだが、そこは省略する。

「あれ、そんな冷たいお言葉……ちょいと御耳をかしていただければそれでいいのでがんす……」

「勝手に話せ」

「そも私は壺毒ヶ原唸殻橋の出、この渦浜とは縁の深い者でありんすが……」

 幽霊の語りをほとんど聞き流しながら、おれは幽霊の姿を観察した。ふむ、彼女には及ぶべくもないが、なかなかの美人だ。

 しかしこの感じだと、おれに恨みを抱いて現れたというわけではないらしい。行き交う者に誰彼かまわず声をかけているような印象がある。

「……その壺毒城の城主というのが、誰あろう蝮様であったのです。城に招かれた私の前で蝮様はこうおっしゃいました……」

 幽霊の話はどうやら佳境に差し掛かっているようだったが、声が小さいのと早口なのとそもそもおれの方に聞く気がなかったのとで、内容はまったくわからなかった。

「……けれども、蝮様がいらっしゃることはありませんでした。どうかお願いです、ここを離れることのできない、私の代わりに蝮様にお伝えしてはくださいませぬか。私はいつまでもあの柳の下であなた様をお待ち申し上げております、と……」

「……………わかった。会えたらな」

 適当にそう答えておれは視線を正面に戻した。礼の言葉を残して、幽霊の気配が消える。

 約束を守る気はなかった。あの手の霊は裏切られることになれている。いつからあそこにいるのかは知らないが、誰も霊の願いを叶えなかったからこそ、成仏できずに漂っているのだろうから。

 もっと時間と人情にあふれるお坊さんにでも解決してもらうことだ。残留思念に構っている暇なんておれにはない。なぜならおれには彼女の元に辿り着かなければならないという使命があるからだ。

「何が使命だ。そんなものが言い訳になるとでも? 君はただ、頼みを聞いてやるのが面倒くさかっただけだ」

 男の声が聞こえてきた。新手の幽霊かと思ったが、見回しても誰もいなかった。

 

「強盗だーっ!!」

 夜明けの町に声が響く。

 どこからともなく悲鳴と、足音が聞こえてくる。

 かまわず走り続けるおれに、足音が近付いてきた。

 振り向くとニット帽をかぶりサングラスをかけマスクを着けてジャンパーを羽織った中肉中背の男が、黒い鞄と包丁を抱えて走って来ていた。男はしきりに後ろを振り返り追手を気にしているようだったが、横まで来てようやくおれがいることに気づいたらしく、ぎょっとした顔でおれを見た。

「………」

「………」

「……た、たのむ、見逃してくれ」

 強盗らしきその男は、外見からは想像もつかない弱々しい声でそう言った。

「ほ、他に方法がなかったんだ。オレにはこうするしか道がなかったんだ。たのむ、見逃してくれ……」

「……行けば? おれ、今、あんたに構ってる余裕ないし」

「……あ、ありがとう!」

 強盗は本当にうれしげにそう言って、走り去った。

 あの強盗にはどんな事情があったのだろう。強盗の振り回していた、血のついた包丁が、しばらくおれの視界に焼きついていた。

「自分には関係のないことだから、見過ごしてもいいと思っているのか?」

 空耳がどこからともなく聞こえてきた。

 

 どれだけ走っただろうか。もう結構な距離を走った気がする。だが彼女の家はまだ見えない。全力で駆けているのに。おれの家から彼女の家までは二百メートルも離れていない。二百メートルなんて全然たいした距離じゃないはずだ。なのに彼女の家屋根は少しも見えてこない。

 だが、おれはへこたれない。彼女のため。彼女に会うためなら、おれの体力は尽きることはない。

 

 走り続ける。明けゆく町並みの景色がおれの横を流れてゆく。渾然一体となった景色はやがて極彩色の模様となっておれを取り巻く。これは走り続ける者に見える景色なのだろうか。

 絵具が溶けだすように混ざる世界に、目まいを覚える。あるいはこれは魔境というものかもしれない。それとも脳内物質の作用だろうか。

 うつろう景色は文句なく美しかった。ここに辿り着きたくて走っていたわけではない。しかしおれは徐々に、このままここにいてもいいのではないか、そんな気分になってきた。

 だがその瞬間、脳裏に浮かんだ彼女の顔で、おれは我に返る。危ない、魔境にとらわれるところだった。彼女のもとへ辿り着く。それがおれのたったひとつの目的であり使命であったはずだ。それまで、おれはただの一度も足を止めるわけにはいかないのだ。

 おれが気づくとともに、魔境は消えた。おれは全力で走り続ける。

「気づいているかな? それを呼び出したのは自分自身だと。今、君は逃げようとしたんだよ」

 魔境の声が聞こえてきたが、おれは無視した。

 

 鬼が後ろから追いかけてきて金棒を振り回した。おれはとっさに体をかがめて金棒をかわす。轟音を立てて、体の上を通り過ぎてゆく高質量の鉄の塊。冷汗が流れる。

 一撃目は何とかかわしたが、鬼は諦める気配もなくおれを追ってくる。

「ちくしょう、どこから現れやがった!!」

 すでに全力で走りつづけているので、速度を上げて振り払うこともできない。おれはただただ走り続けた。

 鬼は赤鬼だった。

 赤鬼が金棒を振り上げる。振り下ろしが来る。そう悟ったおれは重たい足を引きずって全力で横へ避けた。アスファルトを粉砕して、巨大な鉄棒が地面に突き立つ!

 砕けた破片が飛来して、爆心地のすぐ横のおれを打った。轟音と共に地面が揺れ、足をとられそうになる。ふらつく身体をなんとか立て直したところで、唐突におれは気がついた。

「って、なんだよ鬼って!? なんでいきなりそんなもんが現れるんだよ!! おかしいだろ!!」

 だが、おれの理性に満ちた至極もっともな指摘も、鬼には通用しなかった。鬼は金棒をずるりと引き抜き、鬼が立ち止まっているスキに距離を離したおれに、再び追いすがった。

 あっというまに距離は埋まり――

 追い抜きざま、おれの後頭部をねらって金棒を振る! 

 おれは前傾し、紙一重で凶悪な一撃をかわす。暴虐の風がおれのうなじをなでた。

 鬼の攻撃は終わらない。いったん通り過ぎた鬼は前方で振り向いて立ち止まり、伝説のバッターのように力強いフォームで金棒を構えた。おれは止まれない。かがんで避けることも、今回ばかりはできそうになかった。あの構えからなら、姿勢を低くしたおれにスイングを合わせることなどわけはないだろう。かわしようがない。

 ああ、ここまでか。なぜあんなワケのわからない鬼なんかに殺されなくてはならないんだ。

 だが現実は非常である。どれだけ非現実的でも鬼は死としておれの眼前に君臨し、おれにはそれを避ける手段がない。

 ならばこれも運命か。元旦の朝に恋人の家へと駆け出したおれは鬼に殴り殺される、そんな運命だったのだろうか。避け得ないのならば、それが――

 ……いや、……手はある、かも、しれない。

 おれは鬼の構えとは反対の方向へと走り、かつバランスを崩さないぎりぎりまで姿勢を低くした。読み通り鬼はすばやく構えを左右入れ替えて、にやりと醜怪な笑みを浮かべる。

 全ては、一瞬の交錯――

 鬼が金棒を振る。インパクトの瞬間、おれは足の力を全て使って地を蹴り、跳んでいた。チェンジ・アップ。おれの姿勢に低めの球種を予想していた赤鬼の凶器は、地をえぐるように低空で振られ、おれの体はその上を跳び越えていた。

 着地し、その勢いのまま再びおれは走りだす。鬼は予想外のおれの動きにひどく驚いたようで、背後で罵声をあげていた。ざまあみろだ。

 だが、それだけで鬼が諦めるわけもない。鬼にしてみれば、また距離を詰めて攻撃すればいいだけなのだから。どうにかして諦めさせなければならない。さて、どうするか――

 だが、おれの予想を裏切り、鬼はあさっての方向に駆け出していった。やがて遠くの方で轟音と誰かの悲鳴が聞こえてくる。

「……ただの通り魔だったのか……」

 襲う相手は誰でも良かったらしい。

「ただの無差別な悪意に出くわしただけで、運命だと決めつけ諦めかけるとはね。やめたいならやめればいいんだ、運命だなんだと、そんなに大層な理由付けが本当に必要なのか?」

 悲鳴に混じってそんな声も聞こえてきたが、おれは無視して走り続けた。

 

 扉が開いた。

 家の扉である。大通りに面した民家の一軒、その扉が開いたのだ。

 通り過ぎる一瞬の視界の中でしか確認できなかったが、扉の内は漆黒の暗闇で、扉を開けた者の姿は見えなかった。

 反対側から扉の開く音。視線をやると、黒い人影が扉の中から進み出て来た。

 その景色も一瞬で消える。

 今のはなんだったろう。疑問が頭をよぎったが立ち止まるわけにも行かない。

 再び扉の開く音。……嫌な予感がした。

 案の定、大通りに面する家々の全ての扉が、次から次へと開いてゆく。そこからまともな人間が顔を出す扉は一つとしてなく、犬の頭をした男が立つ扉、小指の先ほどの大きさの人間が無数に溢れてくる扉、巨大な蜘蛛が這い出てくる扉と、異常な世界につながっている扉ばかりだった。

 おれが呆気にとられてそれをみつめていると、突然おれの前方の空間に長方形の線が走り、まるで扉のように開く。そこから見えるのは、スイカ大の透明な球体がいくつも浮かぶ謎の空間だった。

 とりあえず発生した異空間を迂回して走る。が、さらにいくつもの異空間への扉が道の行先に開いてゆく。それらはどれも常識で考えられない異常な世界へと繋がっていたが、しかし、魅力的だった。

 この扉をくぐれば、こことはまったく違う世界が待っている。その世界は危険があったり、まったく理解できない法則で動いているかもしれない。だが、この世界に留まっていては決して知ることのできない経験がそこにはある。

 行ってみたい。そう思った。

 だが、おれは――

 おれには、使命がある。彼女の元に行くという使命が。それを果たさずに他の世界に行くことなど許されない!

 大通りの道幅全てを埋めて、巨大な扉が開く。そこから見える世界は、幼いころ夢見た絵本の世界のようで――

 本当に、魅力的だった。

 だけど、おれは。

「閉まれ――」

 おれは叫んだ。開きつつある扉へ向けて。

「閉まれえええええっ!!!」

 おれの声に応えるように、扉の動きが止まった。

 水が引くように。

 夜が明けるように。

 異界への扉が、閉まってゆく。

 ……おれは、その世界へは行けない。

 おれには、使命が、

「怖かったんだろう。他の世界へ行くのが。ただでさえわずかな己の力が、まったく通じないかもしれない世界へ行くのが」

 ………………………。

 

 走り続けること、それは喜びであり、使命であり、もはやおれの生きがいだった。

 走らなければならない。走らなくてはならない。

 走り続けなければ、おれはもう生きてはいけないのだ。

「本当にそうかな?」

 もちろんおれにとっては彼女の存在こそが全てなのだ。そのために彼女のために走ることができないのならおれは存在していないに等しい。

「さてさて本当だろうかそれは。君はそう思い込もうとしているだけじゃないのか?」

 おれは走らなければ走る走るおれは走らなければならない彼女のために。彼女のために。彼女のために。

「取るに足らない理由を、かけがえのない理由だと必死で信じ込もうとしているんじゃないのか。現実を直視したくないがために、そうやって逃げ道を作っているだけじゃないのか」

 声が、聞こえてくる。

 もう無視はできなかった。

 

 どこまで、走らなければならないんだ。

 たかだか二百メートル。そのはずだ。全然大した距離じゃない。

「二百メートルは二百メートルに違いない。ただ、君の力がそれを制するのに及ばないというだけの話だ」

 息が切れる。体力が限界だった。

 彼女の顔を思い浮かべる。それだけでおれは力を得られる。だが、いくら思い出そうとしても、

 彼女の顔が、

 霧の向こう側のように

 ぼんやりかすんでおもいだせない

「おれは、」

「『――おれは一体、なんのために走っているのだったっけ?』」

 おれは膝をついた。

 目まいがする。

 自分のレベルも知らず、

 人を助けず、

 悪に見て見ぬふりをして、

 自らの迷いに捕らわれ、

 向けられた悪意に諦めを覚え、

 他の世界に目を向けることもなく、

 ただこれしかないと信じて、

 走り続けたおれは、

 とうとう、膝をついた。

「どうしたね? 走り続けるんじゃなかったのか。それが使命なんだろう? 喜びなんだろう? 生きがいなんだろう?」

 声が聞こえる。

「もうわかるだろうそれは君が勝手に抱いた幻想だ。君のそれは使命でも生きがいでも喜びでもない。そう思い込もうとしているだけだ。あがいているだけだ」

 本当は、わかっていた。

「……もう、いいんじゃないか?」

 この声は、おれの中から響いている。

「もういいじゃないか。諦めろよ。二百メートル、無理だったろう? 自分には無理だってわかったろう? もうやめよう。他にも方法はあるんだよ。他の目的を選んでもいいんだよ。この道を歩みたい気持ちはわかる。だけど、他に道はないなんて、そんなことはないんだよ」

 おれは、立ち止まってしまった。

 走り続けると誓ったのに。彼女と会うまでは止まらないと誓ったのに。

 ああ、本当は最初からわかっていたんだ。そんなこと無理だって。

 おれなんかじゃ辿り着けやしないって。

 だけど――

 

 おれは、立ち上がった。

「どうしてだよ――」

 ふらつく身体で、惨めな速さで、不格好な姿勢で、

 それでも走る。

「どうして、君は走るんだ!!」

「知るかよ……」

 おれはそう吐き捨てた。理由もなく泣きそうだった。

「走りたいんだよ。つらいのに、無理だってわかってるのに、なんでかわかんないけど走りたいんだよ……」

 おれは走る。

 全力で走る。

 よろめきながら走る。

 泣きながら走る。

 不格好に走る。

 未練たらしく走る。

 惨めったらしく走る。

 惨たらしく走る。

 馬鹿みたいに走る。

 愚かしくも走る。

 誤魔化し誤魔化し走る。

 笑いながら走る。

 苦しみながら走る。

 首をかしげつつ走る。

 亀のように走る。

 ミミズのように走る。

 探り探り走る。

 とりあえず走る。

 ともかくも走る。

 必死で走る。

 がむしゃらに走る。

 自分らしく走る。

 走る。

 走る。

 走る。

 走る。

 走る。

 走る。

 走る。

 走る。

 

 走れ。